ベトナム民主共和国の歴史
偉大なるホー・チ・ミン主席の生い立ち
【略暦】
1890年5月19日 ヴェトナム中部ゲティン省ナムダン県の貧しい儒者の家に生まれ,幼名をグエン=シンクン,学齢に達してからの 名をグエン=タットタインといった。
1905年 10年にかけてフエのクオックホック校に学ぶ。
1911年 フランス船のコック見習いとして出国 し,ヨーロッパ・アフリカ・アメリカ各地を点々とした。
1917年 パリに住みフランス社会党に参加。
1919年 ベルサイユ講和会議にグエン=アイクオック(阮愛国) という名で「安南人民の要求」を提出,一躍有名になった。
1920年 レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」を読み 急速に共産主義に接近し,同年のフランス社会党ツール大会では同党の※1コミンテルン加入を支持, フランス共産党創立に 加わった。
1923年 農民インター大会参加,24年にはコミンテルン第5回大会に参加し,大会後東南アジア担当のコミンテルン東方部委員となる。
1925年 中国にわたり広州でヴェトナム青年革命同志会を結成。
1927年 中国で国共対立が激化したためソ連に行き,ヨーロッパ で活動した。
1928年 シャムへわたり同国在住ヴェトナム人のなかで活動した。
1930年2月 ヴェトナム人共産主義者の諸グループ 統一のための会議を香港で召集し,※2ヴェトナム共産党を結成,そののち南洋共産党の改組やシャム共産党の結成に関与。
1931年 香港で イギリス官憲に逮捕される。
1933年 釈放されソ連に戻る。
1935年 コミンテルン第7回大会に参加。
1938年 中国へ行き延安などで活動。
1940年 ヴェトナムに入り
1941年5月 ※3インドシナ共産党第8回中央委員会を主宰して※4ヴェトミンの結成を香港で主唱した。
1942年 ホー・チミンと名のって抗日勢力結集のため中国へわたったが国民党当局により逮捕され,約1年間広西で投獄された。 釈放後ヴェトナムに戻る。
1944年12月 のちの※5人民軍の前身であるヴェトナム解放軍宣伝隊を結成。
1945年 8月革命において指導的役割を果たし,9月2日に発表された独立宣言を起草 ヴェトナム民主共和国の初代国家主席となった。
1946年 フォンテヌブローで行われたフランスとの外交交渉に赴いたが, 帰国後フランスとの関係は悪化した
1946年12月 全国抗戦のアピールを発して抵抗戦争に入った。 抵抗の精神的支柱となった。
1951年 党大会でヴェトナム労働党の党主席に選出された。
1954年 ジュネーブ協定への調印,
1957年 北ベトナムでの土地改革の「行き過ぎ」の是正。
1960年 81カ国共産党・労働者党会議や中ソ対立のなかでの社会主義諸国 からのヴェトナム支援の獲得などの重要な局面で決定的な役割を果たしつつ, 党の集団指導体制の育成に努め,安定した政治指導体制の形成に成功した。アメリカとの戦争が激しく展開されていた
1969年9月3日 『山もある河もある人もいる,アメリカに勝利したら築きあげよう今よりも10倍も美しい祖国を』ということばを残して,79歳で死去した。
【思想】
ホー・チミンは,民族主義から共産主義へ接近していったアジアの典型的な革命家であった。 コミンテルン時代の彼の活動は,
国際共産主義運動が植民地の諸民族の力に,より注目するようにという努力に集中され,
そののちのフランス・アメリカに対するヴェトナム民族解放運動は民族的力の大きさをみごとに証明することになった。
〈独立と自由ほど尊いものはない〉という言葉は,彼の思想の結晶である。 彼はヴェトナム民族解放運動におけるカリスマ的指導者であったが,
そのカリスマ性はヴェトナムの人々にとって“村のよき長老”とでもいうべきものであった。 「ホーおじさん」という呼び方にそのことはよく表されている。
演説や論文よりも出会いという契機が重要な意味をもった指導者であった。

〔参考文献〕ヴェトナム労働党史編纂委員会・ヴェトナム外文書院編,原大三郎・太田勝洪訳『ホー・チ・ミン』1972年,東邦出版

ベトナム民主共和国の成立ちと抗仏、抗米戦争
【抗仏独立戦争】
1945年9月 第2時世界大戦での日本降伏をうけホー・チミン主席はハノイにおいてヴェトナム民主共和国の独立を宣言し,自ら大統領となった。
だが,ほぼ時を同しくして,日本軍武装解除のため,北部には中国国民党軍,南部にはイギリス・フランス軍が進駐。 旧植民地の復活を狙うフランスとのあいだに,南部では早くも衝突が始まった。
1946年3月 フランス連合内のインドシナ連邦構成国として民主共和国の独立を認めるとする協定(三・六協定)が両者間で結ばれたが, あくまで完全独立をめざす我がヴェトミンと,植民地を手放す意志のないフランスの隔りは大きく,実効はもちえなかった。
同年12月19日 ハノイで両軍のあいだに戦端が開かれた。我がヴェトミン軍は当初劣勢であったが, 北部山岳地帯にたてこもってゲリラ戦を展開しつつ徐々に態勢を整え, やがて戦争の主導権を握っていくようになる。
1949年 フランスが※8バオ・ダイを首班とするヴェトナム国をサイゴンに樹立する
1950年1月 ※6毛沢東同志率いる中華人民共和国は1950年1月いち早く我が民主共和国を承認 ※7レーニン同志のソヴィエト連邦共和国も承認し, ヴェトミンは中越国境越しに軍事的支援を受けられるようになり,このことが戦況の転換に大きな役割を果たした。
1950年2月 米・英がヴェトナム国を承認。 アメリカは大規模な対仏軍事援助の開始や バオ・ダイ、カンボジア、ラオスとのあいだに軍事援助協定を締結するなど, しだいにこの戦争の主役として登場するようになる。
1954年5月 フランス軍にとって北部での戦況は年を追うに従って絶望的となり, 要衝ディエンビエンフーが陥落するに及んでフランスも政治的解決を求める姿勢に変わっていく。 そしてジュネーブ会議が本格的討議を開始
同年7月21日 ジュネーブ協定が調印され休戦が実現した。同協定は,@北緯一七度線に暫定軍事境界線を設定し、北ベトナムと南ベトナムにいったん分断する、A二年後に南北統一選挙を行う、と 謳っていた。
   
 
【抗米救国戦争】
1956年7月 バオ・ダイを廃してアメリカの傀儡政権である※9ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)大統領に就任していた反共民族主義者ゴ・ディン・ジェムは北側が共産主義体制にあることが最大の障害であるとして,統一選挙を最終的に拒否した。 こうしてジュネーヴ協定は一片の空文と化した。
1957年 共産主義者の指導する反政府暴動が南の各地で引きおこされるようになる。
1960年11月 ラオスの協力でホーチミンルート完成
1960年12月 ジャングルのなかで※10南ベトナム解放民族戦線が結成され,ベトナム人民軍と共に抗米救国戦争が開始されたのである。
1964年8月 トンキン湾にて攻撃を受けたと米帝の言いがかりを受ける。
同年8月 米帝、報復と称して爆撃を行う。以後戦闘に直接介入を開始する。
1966年7月 ホー・チミン,徹底抗戦と国民総動員を宣言
1968年1月 テト休戦中に南ベトナムの44の省のうちの36省、242の主要都市の内の64都市、大都市50のうちの41都市に対して一斉に行ない大勝利を収めたが、解放戦線は45000人もの死傷者を出した。
1969年9月 ホー・チミン死去。しかし祖国統一の火は決して消える事がなかった。
1972年3月 今までの最大規模での攻勢をかける。米帝からは『イースター攻勢』と呼ばれた。
1973年1月 パリ和平協定が調印され、捕虜と引き換えに米帝のベトナムからの完全撤退が決定した。
1975年3月 春季攻勢(Spring Offensive)が開始
同年4月21日 南ベトナムのズオン・バン・ミン政権,無条件降伏の声明を発表
同年4月30日 サイゴン陥落

【注釈】
※1 ●コミンテルン 1919〜43年、国際共産主義運動に君臨した指導・統制センター。
※2 ●ヴェトナム共産党 コミンテルンの指示により1930年にインドシナ共産党に改称
※3 ●インドシナ共産党 この名称をもつ組織は歴史上二つ存在した。一つは,1926年6月ヴェトナム青年革命同志会の一部が結成した共産主義者の1グループで, これは1930年2月他のグループとともにヴェトナム共産党に合流した。 もう一つは,このヴェトナム共産党が, コミンテルンの指示によって1930年10月にインドシナ共産党と改称したもので, この党は1951年2月の党大会でヴェトナム・カンボジア・ラオスの三つの党への分離が決定されるまで存在した。 このインドシナ共産党は,成立経過からもわかるとおりヴェトナム人中心の党で,1930年のゲティン-ソビエト運動, 1930年代後半のインドシナ民主戦線運動, 1945年の8月革命など,ヴェトナムの革命運動で主導的な役割を果たした。 第二次世界大戦後のフランスに対する抗戦(第1次インドシナ戦争)のなかで 同党はカンボジア人・ラオス人のあいだにも影響力を拡大し, 1951年2月に三つの党へ分離されることになった。 今日のヴェトナム共産党,カンボジア人民革命党,ラオス人民革命党の前身である。
※4 ●ヴェトミン (Viet Minh, ベトナム・ドゥクラップ・ドンミン(ベトナム独立同盟)の短縮)は、フランスからの独立を求めるために 1941年に「民族解放闘争」を目的に結成される。形成された。 同盟はグエン・タト・タイン(後のホー・チミン主席)によって率いられた。
※5 ●ヴェトナム人民軍 前身はヴェトミンの軍事部門、武装解放宣伝部隊
※6 ●毛沢東 支那の革命指導者 ・中華人民共和国国家主席(在任 1949-1959)
※7 ●レーニン (ウラジミール・イリイッチ)ロシアの革命指導者1917年の十一月革命によりソビエト連邦の首班となった
※8 ●バオ・ダイ 阮(グェン)朝最後の皇帝フランスの反ヴェトミン工作に協力して,1949年3月のエリゼ協定で国内行政権を認められたヴェトナム国の元首となった。
※9 ●ヴェトナム共和国 米帝の支援によって1955年に南ヴェトナムに設立した傀儡国家 、抗仏戦争中に,フランスは,ヴェトナム民主共和国(ヴェトミン)に対抗するため 阮朝最後の皇帝であったバオダイを元首とするヴェトナム国をたてた。1954年のジュネーブ協定の結果, ヴェトナム国は北緯17度線以南の南ヴェトナムをその管轄下に置いたが, アメリカの支援を得て首相となったゴ=ディンディエムはバオダイ派の一掃をはかり, 1955年10月の国民投票で政体の変更を決め, ヴェトナム共和国を成立させてその初代大統領となった。 ヴェトナム共和国は,ジュネーブ協定の定めた南北統一選挙の実施を拒否し, 北の民主共和国や南の「革命」勢力と対抗すべくアメリカの全面的支援に頼った。
※10 ●南ベトナム解放民族戦線 1960年に結成された。表向きは南ベトナムの一般市民によって自発的に作られた反米・反帝国主義組織 実際は幹部の多くがベトナム労働党員でありベトナム民主共和国のゲリラ部隊であった。傀儡政府軍からはViet Nam Cong San (越南共産)の略称としてべトコンと呼ばれた。
表紙